ステガノグラフィック・ロマン

絵画が筆致とストロークによって獲得される美の真理であるという信仰。画布の最終の上層に姿を現したそのイコンをして、私たちは真理の降臨を受け止め続けてきた。
 しかしなのだ。もし絵を描くという行為が、何億回という筆致とストロークの果てに真理を世界の深淵へと隠蔽する作業であったとしたならば、絵画の表層を貫いてきたそれまでの美の根拠とは、いったいどこをさまようことになるのだろう。
 私が石黒昭の絵画に突き付けられたもの。それがこうした絵画を絵画と認識させる蓋然性への、不穏にして逆説的な問いかけであったといえるかもしれない。そして、それはまさに絵画とは真理を出現させるために描くことではなく、それを隠すために描く行為であったことを直感させることになった。
 堅牢なるミュージアム。あの分厚い石壁によって構築された美の要塞に君臨してきたハイアートとしての名画を相手取り、石黒はそれぞれの描写法を丹念に研究し、それをそのまま踏襲するかのように、ローアートの神々である現代の愛玩のキャラクターを描き、あえてその美の殿堂の根拠に染み込ませてみせる。もちろん石黒は古典的な描法で描いたその妖艶なる美少女キャラクターを息づかせようとしているのではない。絵画をその住み処とする女神や天使のイコンをアリバイや口実として援用しつつ、むしろ滑稽なまでの緊張感を強いる表層への違和感をして、絵画というその超薄の画布に潜められた真理の存在の予感へと、私たちを導いていくのだ。
 そのありようは奇しくも、情報ハイディングの源流ともなったステガノグラフィーの最古のモデルが、ヘロドトスの歴史書に記されるように、木板に書かれた秘文をワックスで隠すことであったように、真理が隠蔽されることによって真理たり得るという逆説を、数億回の筆致とストロークによって、浮上させるのではなく、再び隠蔽させる営為にほかならない。
 描かれたものを英雄とする信仰を破壊し、隠されたものを隠し続ける力こそ、画家に求められるものではなかったか。石黒昭はその力をもって、この表層的世界に安住するすべての価値の転覆を、ほかならぬその表層において、鮮やかに、そして、ロマンティックに示してみせる。


南嶌 宏

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